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青巒荘の歴史
- 青巒荘の歴史は間もなく100年を迎えます。
この大きな節目に、過去の貴重な資料を集めて歴史を振り返る「青巒荘100年展」を行っております。
館内でも掲示物として、多くの皆様にご覧いただいております。
昭和初期からの時の流れが記された、貴重な写真の数々をどうぞお楽しみください
- 創始者 高知尾健次郎翁明治9年越後片貝(新潟県小千谷市)に生まれる。
昭和の諸島、広河原の土地を入手。温泉の湧出を起因に、
湯元温泉旅館を建て、青巒荘を興した。
以来約50年にわたり、奥湯河原の開発に、
私心を虚しくして精魂を傾注。
昭和33年6月、83歳の寿命を全うしてこの地に永眠した。
- 廣河原の全景 青巒荘遠景(昭和初頭)湯河原町廣河原温泉名所(現在の奥湯河原温泉)
このころの広河原はわずかな水田とわさび作り、炭焼きなどの山仕事で生計をたてている、
かやぶき屋根の農家が4件ばかり点々と存在していた。
藤木川の川幅も現在よりずっと広く、巨大な石がごロゴロとしていた河原であった。
湧水を利用し、飲料用の水道を施設。
藤木川の水量は豊富で川から水道管を伝って、鯉やはや、アユなどが昇ってきていた。
- 青巒荘の命名昭和5年、本館が落成した翌年の早春、仁賀保香城がたまたま、
この地に旅杖を曳いたことがあった。
このとき仁賀保は齢古希にちかく、当代の漢詩人、書家として一家をなし、その文名を市井に知られていた。
まだ木のほのにおい新館に滞在して、付近の風光を嘆賞しながら興至り、五絶三章の漢詩を賦した。
「青巒荘」の由来は、この香城翁の詠んだ詩の中から取り出した文字をつづったもので、これより湯元館を改め「青巒荘」と名付けたものである。
- 横須賀海軍病院 仮療養所時代1943年 昭和18年
横須賀海軍の申し入れにより仮病舎となる
※一般客は泊められないが、旅館側に自立運営が認められていた)
- 日本海軍によって敢行された真珠湾攻撃が太平洋戦争に発展。
戦線が拡大するにつれ、日増しに増えていく海軍戦傷者を病院では収容しきれなくなった。
横須賀海軍病院ではその対策として湯河原の温泉宿が、日清・日露の両役の際、陸軍疾病兵らの療養所に充てられたことを想起し、海軍のために仮病舎設置を湯河原旅館組合に斡旋方を依頼した。
内容は一般客は泊められないが、旅館側に自立運営を認めたものであった。
1. 一般客の宿泊は禁ずる
2. 建物・設備等の管理は旅館でする
3. 宿泊料は1泊3食付き、1人金2円80銭なり
4. 食事の内容
主食:米麦混合1日1人五合五勺
副食:朝は生卵と味噌汁、新香
昼生肉類、野菜煮物、新香
夕鮭肉類、野菜煮物、新香
物資は軍需優先の建前で全て公定価格で入手できた。
食事の配給、後片付け、病室に充てられた座敷に、廊下、お手洗いなどの掃除は海軍側で担当することになっていた。
- 昭和20年代 青巒荘の再開
1946年【昭和21年】 青巒荘再開に踏み切る
1949年【昭和24年】 称号:株式会社青巒荘旅館 に変更
1950年【昭和25年】 露天「岩風呂」完成付随して当局の許可を得て「朱塗りの橋」を架ける。
1952年【昭和27年】 別館(2階建て120坪)完成 奥湯河原の顕彰碑除幕式挙行
1953年【昭和28年】 「大浴場」完成。当局の許可を得て県道の下に地下通路を通す。